このシリーズで扱うトピック
こんにちは、しゃみです。
blogを作ったので時間がある時に色々記事を書き溜めていこう。歌う人のためのキリスト教入門(ミサ曲の歌詞等の解説)シリーズとか書いてみたいけど、需要あるかな。
— しゃみ@blogはじめました (@shami_blog) 2017年9月17日
とツイートしたところ、反響があったので書いてみることとします。
ミサ曲の歌詞の訳や発音を解説されている資料はたくさんあるので、私の方ではあえて「(一見不可解な歌詞が)キリスト教(徒)にはどのような意味を持っているか」について解説というかエッセイ風に書いてみたいと思います。
ミサ曲を歌うなら目を通した方が良い資料
そもそも、発音や訳はこちらが一番よくまとまっているので、歌う人はまずここに目を通しましょう。ラテン語(一部ギリシャ語)の発音を知らないと音楽はできませんよね。
ミサ通常文のラテン語解説 http://blog.livedoor.jp/missa_ordinarium/archives/51777661.html
Kyrie歌詞
Kyrie eleison. 主よ、憐れみたまえ
Christe eleison. キリストよ、憐れみたまえ
Kyrie eleison. 主よ、憐れみたまえ
憐れみ とは
このキリエ(憐れみの讃歌)を理解することは、キリスト教でいう「憐れみ」を理解することです。日本語の辞書だと憐れむは同情・慈悲という意味が充てられていますが、聖書的なニュアンスはより具体的です。
新約聖書が書かれている古典ギリシャ語では「憐れむ」はスプランクニゾマイと言います。直訳では「腸が焼ける」。意訳すると、あなたの苦しみを思うと、私も腸が焼けるほど苦しい。となります。あなたの痛みを自分の痛みに感じる。それほどの慈悲の心、在り方が憐れむ=eleison なのです。
イエスは憐れみの神
わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。(フィリピの信徒への手紙 1章8節)
上はイエスの弟子パウロの言葉ですが、この日本語版聖書の「イエス・キリストの愛の心」はギリシャ語原典ではスプランクニゾマイの言葉です。イエスは、社会から疎外され小さくされた人々といつも共に歩み、その苦しみを自らのものとし、愛を注いだのです。
一説には、新約聖書の福音書で、主語イエスに対する動詞で最も多いのは「聞く」、その次は「憐れむ」と言われています。そのようなイエスと交わったは人々は、そのイエスの中に救いの道を見出したのです。
人間の何に対して神の憐れみを祈るのか
私見ですが2つの意味があると考えられます。1つは俗世を生きる人々の辛さに対する神の憐れみ。争いや貧困からくる人々の不安や恐れを神が覚えていてくださるように、祈っていると考えられます。
もう一つは、人間の原罪について悔い改めている祈りかと思います。キリスト教の世界観では、人は例外なく神に対して罪を背負っています。人はかつて神の言いつけを破り、自ら神との関係を断ちました(創世記)。全能の神との関係が絶たれると、(神に対し不完全な)人間からその関係を修復することは不可能です。しかし、そんな罪ある人間に対してでさえ、神は、その独り子イエスキリストをこの世に派遣したことに象徴されるようにほど、私たちに歩み寄ってくださっている。その神の歩み寄り、愛を「神の憐れみ」と言うのだと思います。
この辺り宗教を持たない人には難しいニュアンスなのですが。。。例えて言うならば「自分はこれが無ければ死んでしまう」というほど大切なものを自らの過ちで失ってしまった人がいたとして、とても絶望している中で、神様(という唯一無二の絶対的存在に)に「すいません、私が悪かったんです。私はいまとても苦しいです。でもあなたはそんな私の私の苦しみを分かってくださる。どうか苦しみを分かち合ってくださらないでしょうか」と祈っている・・・そんなニュアンスでしょうか。(伝わるかなあ)
罪について
キリスト教を味わうには、「罪」がどんなものかの理解が不可欠になってきます。よかったら昔の記事も参考ににしてみてください。